古民家五右衛門の歴史

歴史

古民家五右衛門は、戦国時代以前から改築を重ね住み継いできた古民家。染谷家第16代目が遂に民泊施設としての利用をスタートさせました。

昔ながらの田園風景が広がる稲敷市で、「The Last Japan」が体験できる貴重な施設です。

稲敷の田んぼ

地域最古の物件。築400年以上の古民家をリノベーション

古民家五右衛門は、今から約400年以上前に建てられた屋敷を染谷家一族が代々受け継ぎ、手直しを加えながら現在まで使われてきました。幾多の地震にも耐えた柱や梁たちは、今なお呼吸を続けています。

斜め向かいに建つ「平井家住宅」は、同年代で五右衛門より新しい建物ですが、ほぼ改築されていなかったため国指定の重要文化財となっています。(見学は要予約)

五右衛門の歴史

「五右衛門」は室町時代から続くこの家の屋号。関東における水上交易の要衝として栄えたここ柴崎で、大地と共に存在してきた旧家。

平安時代、武蔵国や下総から石岡の国府へ続く道は、ここ柴崎からは水路で霞ヶ浦を縦断するルートだったといいます。

室町幕府の足利家と同じ家紋「丸に二つ引両」。

この家紋は足利家が鎌倉時代から使っており、室町時代には功績を残した戦国武将たちに「丸に二つ引両」を授けたそうです。

そして安土桃山時代の1583年、ここ柴崎に東光寺が建立されることになり、染谷家がその建立に尽力したという話は地元に語り継がれています。

染谷五右衛門

染谷家に伝わる巻物。羽黒山寂光寺は、現在の出羽三山神社と言われています。

古民家宿泊関東

現在の五右衛門刀。2尺8寸。
平常時の刀はこの向きに置きます。

水郷稲敷は穀倉地帯。今もかわらず広大な田に守られています

水郷稲敷は穀倉地帯。今もかわらず広大な田に守られています

昔話

稲敷市に残る南北朝時代の遺構が五右衛門の歴史を紐解いてくれます。

1334年、後醍醐天皇を中心として「建武の新政」が始まります。
しかし後醍醐天皇政権が目指したのはずばり「貴族社会の復活」であり、それは武家の期待しないものでした。その武家の頭として立ち上がったのが足利尊氏です。

後醍醐天皇は吉野へ移り、公家の支配する世界の再興を期し「南朝」、一方武家社会の継続を掲げる「北朝」、と相反する二つの朝廷がしのぎを削る南北朝時代となります。

1337年、足利尊氏は佐竹貞義を常陸国守護に任命、翌1338年、北朝は足利尊氏を征夷大将軍に任命。領地の争奪戦が激化していた常陸国において、北朝が次第に勢力を強めていきます。

1338年、南朝の重鎮である北畠親房がここ稲敷市の神宮寺城や阿波崎城を拠点として北朝側と交戦しますが次第につくば市の小田城、筑西市の関城へと追われ1343年に吉野へ敗走。常陸国は北朝側により制圧されたのでした。

この南北朝の動乱期、北朝の戦力として功績を残した染谷家が足利家から「丸に二つ引両」の家紋を授かったと伝えられています。

前述の神宮寺城や阿波崎城の遺構は散策可能です。また南朝に加担し処刑された13人の塚は今なお線香の煙が絶えないとか。
ご興味のある方は、太古の戦の痕跡を辿ってみるのもまた一興ではないでしょうか。

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